室井佳世展を振り返って

2024年10月24日から11月3日、室井佳世展を開催いたしました。

多くの方にご来場いただき、ありがとうございました。

室井先生の作品を様々の視点から鑑賞するために、画家の蒜山目賀田さん、詩人の藤原安紀子にコメントをいただきました。

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室井佳世 展             蒜山目賀田

展示室にはいるなり目に、暖色のはなばなしさがうれしい。赤や黄色の絵の具は、紙のうえで、形や柄(模様)、あるいは光になりながら踊り、かつ、身をよじり、形や柄、光から抜け出そうとする。けれども、やかましいほどではない。わきまえられた賑やかさにとどまる引き締まり方に品がある。目の前のものは厳しくあくまで平面にい続けている。絵の描かれた物体が、たしかにある、という力強さ。なんていうかその、すっきり真面目なんである。身が詰まっている感じがする。パネルなんだから持てばそれほどの重さはないだろうのに、実際よりよほど重い予感がたつ。落とせばガラスのようにがりんと割れる緊密さがある。


無邪気さを装って描いたと見ることもできる。反対に、つい無邪気さがはみだしてしまった絵とも見える。しかしいずれにせよ、根本にはなにか、生硬な、一本気なものがある。見ないうちにずいぶんおとなびた子供が、久々会う叔父や叔母を前にして、それまでそんなことなかったのに、こわごわ、ぎこちなく敬語を使っていじらしい。そんな真面目さだった。

作家のいろ、をみるために、表面の物質性に目が慣れて飽きるまでひとまず眺めきる。そのむこうにどんな息遣いがあるか、じっと凝らしていると、闊達さ、という言葉が出た。ひと目では、すっとはなばなしい色が目立った絵の具が、かつて画面上で過ごした時間に、視線がたどり着く。麻紙の繊維に沈みながらとなりあう色にとろりとかぶさって、半透明になった。上流の澄んだ瀞に沈んで崩れずにいる、熟れて落ちた果実を見下ろしている。  

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巣にかえらない鳩は –––室井佳世展によせて   藤原安紀子

輪郭のない色について考えている。隔てるものがなくとも色はあるだろうか。存在のなかに色が訪うのか、それともそとから包むのか。隔てるのでなく波のように合流する地点の高度が線らしきものを生むと仮定してもよい。おなじ運動により現れた水辺には鱗粉が舞っている。

色に、存在としてまじわるということ。存在という事態に輪郭があるかどうか、識別するために法理が必要だけれどある種の個人的倫理のほかに、わたしたちを隔絶する術は極限においてない。輪郭を存在させるのは言葉による分節。山の頂。山はどこまで森だったのだろう。岩盤の亀裂はいつ小石になるのか。

水底をトンと蹴って、キャンバスという場所に色が集う­–––道すがら引き連れてきた待宵草をピッチャーに生ける。幼女がいたずらに一輪を髪に挿そうとする。母の背は甘いミントティーの湯気の奥で揺れたまま、クロスにこぼれた水滴の笑い声にほころぶ。ふたたび小さな花が黙してひらき、またたく間に実をむすぶ。かたい果実を神秘のように捥いで遠くとおくへ–––ほうぼうへ散る色から倍音のハミング。

わたしは、深緑の里山の中腹からながめている。

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出展作品