数寄和では10月14日より小山維子、Thomas Gillant(トマジラン)、ホリグチシンゴによる三人展”爽籟”を開催します。展覧会の開催に先立って、展示の企画者かつ出品作家でもあるホリグチが小山維子さん、Thomas Gillantさんのアトリエにそれぞれ伺ってインタビューをしてきました。後編は相模原に所在する共同アトリエにて小山維子さんに制作について話を伺ってきました。
アトリエ風景
ーー今日、初めて小山さんが借りられている共同アトリエにお邪魔してるんですけど、天井は高いし壁も白いし、海外のギャラリーみたいな空間でこういうところで制作出来るのはすごく羨ましいです。この場所で制作するようになってどれぐらい経ちましたか?
小山 大学卒業後から借り始めたので今年で8年目になります。学部3年生の頃、大学院に行くかどうか迷っていて。そのときアートラボはしもとという施設でお世話になっていた学芸員の加藤慶さんに相模原で開催されているSUPER OPEN STUDIOを教えてもらい、一緒に色々なスタジオを周らせて頂きのちのちこのREVというスタジオを借りることになりました。
ーー大学院には進学されなかったんですね。
小山 大学の同期で制作を続けている人たちは多摩美や芸大の院に進学した人も多かったんですけど、卒業したらどっちみち働かないといけないし、それなら生活しながら制作出来る環境を最初から整えてた方がいいなと思って。
ーー共同アトリエで制作するようになって、大学の頃と変化はありましたか?
小山 最初の1年は仕事をしながら生活することと、制作をすることの両立が本当に大変でした。短時間でも、とにかくスタジオに行ったら何でもよいので1つ作って帰ろうと決めていましたね。初めの頃とかは形が保てないテープや粘土、半立体などそれまで使ったことのない素材をよく使っていました。かえってそれが学生の頃の制作からの解放にも繋がった気がします。
ーー小山さんがアトリエに入った頃は、周りは結構年上の方が多かったですか?
小山 そうですね。10個くらい離れてる作家さんもいました。院に進学した同期と働きながら制作している自分を比べてしまう時期もあったんですけど、周りにいる作家さんたちはみんなバラバラの生活リズムでスタジオに来ていて、仕事もそれぞれだし、本当に社会に出てからもいろんな制作や発表の仕方があるんだということを間近で感じられてとても励みになりました。
《横顔と種(仮)》2023 木枠に貼った綿布に油彩
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ーーありがとうございます。小山さんの制作について聞いていきたいのですが、学生の頃から今のような抽象的な絵を制作されていたんですか。
小山 学部2、3年生の頃に、自分の周りの、現実的にどうにもならないことをどうやって腑に落とすことができるかを考えていて。そこで、人間関係とかを図式化して自分だけが分かるような図式を描けば、少し気持ちが落ち着くんじゃないかと思って、人を丸や線などに記号化して絵にするという制作をするようになりました。その辺りから「抽象」という言葉について考えはじめた気がします。
ーーなるほど、、小山さんの作品に対して、個人的にかもしれないですが、パッと見て何が描いてあるのか分からないけれど、でもこれは所謂抽象画ではないのだろうなっていう印象があります。奥行き感というか、空間の中の湿度や光とかそういったものが描かれているのかなと。最近の作品はどういう意識で制作されているか聞いてもよろしいですか?
小山 描きたいと思うきっかけはあっても、そのきっかけというのは最終的に絵にとって1番大事な訳ではないということに最近気がつきました。何を描こうか考えているのってスタジオに来て制作を始める前までの話で、スタジオに来てキャンバスなり紙なりの前に立ったとき、目の前のこれから描く絵に向き合うしかなくなるというか。進めていく画面とのやり取りの中で、どういう風に描いていきたいのか、描いていくのかに興味があります。
ーー制作するとき、自分はこういう作品を作りたいという理想みたいなものはありますか?
小山 私の絵は布も絵の具も薄いことが多いんですけど、支持体の強度に関わらず、薄くて分厚い絵を描きたいです。自分がいいなと思う絵って主題があるなしに関わらず、そこにある色と空間が画面に広がっていくような絵なんですよね。そうなると自分はモチーフの主張というよりは、絵画空間の中にしか存在できない厚みみたいなものを絵に残したいです。
ーー小山さんは描き始めるとき、描きたいもののイメージというか図像が頭の中にあるんですか?
小山 それがほとんどないのかも。描くときに、気になるきっかけがあったとしてもそれと絵を並べて描いている訳じゃないから、だんだんその絵の中で起きていることに意識がいきます。いい進み方のときって、画面に乗せた絵の具が絵の内側に吸収されるんですよ。絵の具を、絵の方が動かさなくさせてくるというか。頭の中にイメージがないのに、なんで一手が入れられるんだろうみたいな、聞かれるたびに、自分でもなんでだろうっていうのはあるんですけど。絵から手を引くタイミングのほうが難しいかもしれないです。
ーー最初の真っ白なキャンバスに最初に絵の具を乗せるときって、何を考えて、どういうテンションで描き始めるんでしょう。自分も作品を描くので他の作家の最初の一手っていうのがすごく気になっていて。ライターで火を起こすときの最初の火花みたいなものが何なのか気になります。
小山 大体使いたい絵の具を練り始めるところから始まるんですけど、その日の天気や体調とかによって、なんとなくその日のベースにしたい色が決まるんです。絵の具を練りながら、スタジオにあるキャンバスの布の色とか見ながら微妙に色を変えることもあります。絵を描くためのドローイングはなくて、例えば、このスクエアの絵(作品①)は、壁に、抜いたビスの跡とかが残っていて、それをキャンバスに描くところから始まっています。似たようなプロセスで、1番絵に近い壁から影響を受けて描き始めよう!と壁に描いていた試し書きをキャンバスに真似して描き始めたものもあります。でも描いているうちに、画面の中でもっとこういう色が欲しい、ああいう形が欲しいみたいな感じでどんどん変わっていって、最終的に壁からは離れていきましたね。
作品①《Outside》2022 キャンバスに油彩
ーーこの紫色の絵(作品②制作中)なんかは、なんとなく葡萄が描いてあるのかなっていうのが比較的分かるんですが、例えばこの絵はどういうきっかけで描き始めたんでしょうか。
小山 家で葡萄を食べていたときに、葡萄の断面を見たら予想以上の水分量で、これだけの水分量をあんな薄い皮一枚で保っているんだということにちょっと感動して。これどういうことなんだみたいなことを絵にしたいと思って。でもそれは決して葡萄の味とか見た目を描きたい訳ではなくて、その構造みたいなものに感化されて描き始めました。葡萄って房じゃないですか?でもそれ1つ1つを拡大していったときに、どれぐらいの距離で見た時にそれが葡萄だって分かるのかとか、何を持ってそれが、そのものだっていう風に認識されるのかっていうのかなとか。自分の絵に対しても同じように、どこまで形が出てきたら、その形が認識の上で固定されるのかっていうことを考えながら描いているところがありますね。描いているうちに出てきたものに対して、自分がそれを見逃すか捉えるかみたいな、そういうやりとりをしたくて絵を描いているのかなって。
作品②制作中《未題》
ーー今の話を聞いていると実際に画面に描画している時間よりもその絵を見ていたり、考えたりする時間の方が長いのかなと思ったんですが、どうなんでしょう。
小山 見ている時間はほんとに長いです。描いている時間より長いこともありますね。自分でもどこに手を入れたか分からなくなるような絵だから、制作中に写真をとってどういう風に絵が変わったか写真をを撮ることもあります。でも描き終わったらほとんど見返してないな、、
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ーー小山さんは地と図の関係って意識しながら描いていますか?
小山 人の絵のほうが地と図を気にして見ているかもしれません。好きな画家に、ロベール・ドローネーとか、セルジュ・ポリアコフという画家がいるのですが、彼らは地と図が分からなくなる感じ、隣り合ってる色のせめぎ合いが、ずっと分からないからいくらでも見てられるみたいなところにすごく惹かれていて。自分の絵は、作品によりますが、真ん中に絵の具がないものやキャンバスの地が残ったまま終わっている絵は、あんまり地と図という感覚よりも、その絵に必要な空間だったり、穴や余白としてみえるとか、それがあるから絵が成り立ってるような状態にしたいと思っています。
ーーじゃあ描いていない部分は意識としては、地と図ではないというか別の意味合いが絵の中にあるっていう意識がある?
小山 あると思います。
ーーそうやって見てると小山さんの作品って油彩もデジタルも画面の中に空きというか抜けがあるというか、そういう構造がある絵が結構あるかもしれないですね。
小山 ちょっと話がずれますが、モランディの静物画も気になります。モチーフ以外の画面の余白、そこは彼にとって目の前にある平面としての絵画の余白なのか、それともそのモチーフの奥に何か空間があることを見たくて存在しているのかとか、瓶と瓶の間の隙間には空気があるのかないのかそういう静物画だからこそ気になる余白もあります。目の前にあるものを描いていたとしても、描くという行為で絵に変換されていくから、その絵の中で描かれているもののすぐ後ろとかすぐ隣の色とかが、どういう意識でそれがそれでいいとなったのかが凄く気になるんですよ。真ん中が空いている作家ってあんまり見たことがないので、そこはちょっと追求したいというか、それってどういうことなのか考えたいなあと思う部分ですね。
ーー自分が日本画専攻出身だからそう感じるのかもしれないですけど、小山さんの絵を見たときに、描いていない部分が支持体として剥き出しになってたり、ベースカラーに近い色とかが塗ってあったりしますよね。そういうのは日本画というか明治以前の水墨画とかいわゆる日本美術に見られる余白というか、ちょっとそういうものに近い要素があるのかなと感じます。
小山 同じようなことを前に言われたことがあります。水彩もそうですけど、薄めることで色の幅が深まるっていうのが結構好きで、油絵の具も油での薄め具合で色を増やす色作りをしています。薄いから弱くなるっていうことではなく、そこに遠近感とかではない奥行きみたいなものを出せたり、速度を遅くしたりとか、そこで見えてくるものを見逃さないということに私は凄く興味があって。
ーーすごくよくわかります。
小山 絵の具ってチューブからちょっと出しただけで美しいから、それとは違う美しさを自分の絵に留めないといけないと思っていて。画面での絵の具の扱いは無意識にコントロールしてるところだから、自分じゃないと気付けない絵の成り立ち方とか、なんでなんか良いって思っちゃうんだろうとか、他の人と何が違うんだろうとか、少しずつこういうことかな、と思いつつ、まだまだ分からないことが沢山あります。
アトリエの壁
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ーー最近思っているのが、人間の目って本当はめちゃくちゃ色んな情報をちゃんと読み取ってるんじゃないかってことで。微妙な絵の具の重ね方とか作家がどういう息遣いで筆を動かしているかとか、そういう痕跡って画面に全部残っていて。鑑賞している人が絵を描いているかどうか関係なく、本来人の目はそういう微細な情報を読み取っている気がするんです。それは自分で展示していて、お客さんと話している時とかに感じることなんですけど。だから人間がものを見る能力そのものをもっと信用して制作しても良いんじゃないかと最近思うようになりました。
小山 なるほど、、私はかなり目が良いのですが、視力が良すぎると見ようとしてないものまで視えちゃうことが多すぎて、それだと逆に自分がこれを見たんだ、これを描いた!みたいなことがなかなか言えないなという感覚があって。でも絵は自分が進めないと一生そのままだから、目の前にある支持体に自分が手を入れていって、もう自分が手を入れないって決めたら、もう誰もそれに手をつけられないみたいな。絵ってそういう存在で、それなら自分で絵を見て描いても良いかなって感じがするんですよね。うまいことまとまらないですが、、、
ーー小山さん目はどれぐらいいいんですか?
小山 1.5以上は確実にあります。視力検査で視えなかったことがないです。
ーーそれはすごいですね。要は視力検査で測れる上限より視えてるってことですよね。そういう目で絵を描いてると全然違いそう。制作している時にキャンバスの織り目って見えてますか?
小山 見えるんですけど、それはあんまり意識してないんですよね。買った地塗り済の布とか、ここはちょっと塗りが荒いなあみたいなのが見えるので、逆にそれをとっかかりに描き始めたりします。薄い布とかを木枠に張る時にテンションの掛け方で繊維が斜めちゃったりするのも、貼りながら、あー、斜めったなあと思いながらそのまま張ってます。
ーー張りながら織り目が見えてるんですか。それは相当目がいいですよね。
小山 とにかく早く絵を描きたいから、逆に視えてる分ずっとそこを意識しないといけないからキリがないなあって。
ーーその話を聞くと自分は全然視えてないんだろうなって気がしてきました。
小山 人が全然気にしないようなことを気にして繰り返して描いているところとかもあるかもしれません。でもそこが1番に見えてこなくても良いというか。自分がそのやりとりをしたことが大事。
ーーそれだけ見えてると絵をフィニッシュさせるのが大変そうですね。細かい部分が見えてる分、気にし出したらキリがないですもんね。
小山 そうですね、どんどん絵の終わりを決めるのが年々難しくなってきています。そこに自信を持てないとこれは自分の描いた絵ですと言えないので、でもいつも同じ判断の仕方というわけでもないので、難しいし面白いところです。
ーー絵を描き終わらせるのって、描き始めるよりよっぽど強い意志が必要ですもんね。
小山 すぐに筆を置けるときもあれば、何日も絵の前で悩んで決められないときもあって。絵を描くことは、絵と自分自身との往復をどこまで丁寧に、かつ良い意味で振り切れるかが大事だなと思います。
(テキスト、編集:ホリグチシンゴ)