蒜山 目賀田
庭とは純化された領土である。庭とはつまり、純粋にテリトリーである。囲われ、整備され、監督され、コントロールのもとにある。それでいながら、「自然らしさ」をとりつくろう。穏やかで優しいオーガニック空間を維持するためには、除草や伐採が欠かせない。
さらに庭は、実際的な生活の機能に関与しない。だからこそ「純粋」なんて言葉を使った。領土のための領土、テリトリーでしかないテリトリー。
それは絵に似ている。
四角く囲われ、整備された平面のなかに、「目の前のモチーフを、素朴に描きとりました」てなツラをして描写されたものがあるのだが、この筆の跡とは実際のところ、構図からなにから、取捨選択を何重にも繰り返した、コントロールの痕跡なのだ。
展覧会の会場にはいって、まっさきに目に飛び込んできたのは、むしろ絵の具の乗っかっていない部分の白さだった。紙や布それ自体のオーガニックな白色だった。取捨選択の結果、色を植え付けられることのなかった素地の存在感こそが、なによりもまず目に訴えたのだった。そこは絵の具にとっての土地である。
たくさんの絵が並んでいるけれど、いずれも絵の具の色は淡く抑制され、かつ物理的な特性由来の現象や筆運びの痕跡をあらわなまま残すことで演出される素朴さの印象を崩さない。おのおの特色ある三名の作家が描いたものであるはずなのに、展覧会全体を一瞥しても、そのことが明確でない。三人が似ているからではない。別々であることが気にならないからだ。別々であることを当たり前に感じられるので気にならない。作家ごとの一枚一枚への面倒見の程度に調律がとれているからでもある。
それぞれに整備されたさまざまなものが並んでおり、しかしいずれも手入れがなされてる。それにより、たくさんの要素によって形づくられてる全体もまた、コントロールされ単一化された総体としての印象に控えている。
それは庭に似ている。よく手入れのされた庭に。