月と架橋
この句は芭蕉のお墓のある大津市の義仲寺の無名庵(むみょうあん)で月見をしていた時に出来たモノのようです。この夜、月見に集まった人たちは、愉しく浮かれた気持ちで湖水に船を浮かべたようです。月夜の琵琶湖に浮かぶ船。情景を浮かべてうっとりします。さてこの句の表現ですが、「鳥は宿る池辺の樹、僧は敲く月下の門」を踏まえてのモノのようです。これから三井寺に行ってその門を敲いて知人でも訪れてみようか、そのような内容の句です。唐の詩人賈島(かとう)が、「僧は推す月下の門」という自作の詩句について、「推す」を「敲(たた)く」とすべきかどうか思い迷ったすえ、唐代を代表する詩人で唐宋八大家とも言われた韓愈(かんゆ)に問います。韓愈は賈島の話を聞いて言下に「敲」を推したといいます。「敲」の字に改めたという故事から、詩文の字句や文章を十分に吟味して練りなおすことを推敲(すいこう)というようになりました。
もう一句、芭蕉の句をご紹介します。「比良みかみ雪指しわたせ鷺の橋」芭蕉この句は湖上に舟を出し遊んだ芭蕉ならではの句のようです。琵琶湖に架かる橋は古い順で瀬田の唐橋、琵琶湖大橋、近江大橋です。最近、完成した第二名神近江大鳥橋も滋賀の大切な橋と言えます。芭蕉の詠んだこの鷺の橋は琵琶湖大橋が出来るずっと前、元禄3年の冬に詠まれたようです。比良八荒には、悲恋の民話があります。昔、比叡山の若い修行僧が、托鉢(たくはつ)に出かけた折り、一軒の民家に滞在しました。そこには娘がおり、修行僧を一目で好きになりました。けれども僧は修行のため帰らなければいけません。僧への思いを断ち切れない娘に僧は、「修行をしている堅田の浮御堂まで百日間通い続けることができたなら、夫婦になろう」と言い残して去っていきました。 娘は、その日から毎晩、対岸の浮御堂を目指して、たらいを船にして通い始めます。九十九夜通い続け、いよいよ満願の百日目の夜となりました。満願を恐れた修行僧は灯明を吹き消します。明かりが見えない娘は悲しみ、小さなたらいの船は娘もろとも湖に沈んでしまいました。☆民話でたどる滋賀の風景「イサダになった娘」があります。ぜひ、ご覧下さい。http://www.pref.shiga.jp/minwa/06/06-movie.htmlこの悲恋のお話はいくつかパターンがあります。どれがホントかは判りません。実はこうだったとか、本当はこうだったのでは?と読み手はいろいろと思うことでしょう。さて芭蕉の句に戻ります。芭蕉は思いを詠みました。湖上に飛ぶ白鷺たちよ、どうか羽を交わしながら、比良から三上へと鷺の橋を架けておくれ。芭蕉って、やはり言葉の達人ですね。実はでもなく、本当はでもない。作品から恋しい気持ちや愛しい思いが伝わってきます。決して消えることのない明かりを感じます。美しい架橋がみえるように思います。昭和39年に開通した琵琶湖大橋。長さ1350m、最大の高さ26.3mの鋼鉄製の橋で、琵琶湖の西岸と東岸がもっとも接近したところに架けられました。数寄和大津に展示中の森山知己先生の水墨画「湖水」。先生は数寄和大津との縁から、琵琶湖を描かれるようになられたとお聞きしました。琵琶湖の好きな私には嬉しい限りです。☆森山知己先生の今回の展覧会のDMより私が見つけてきたと思っている何か、大切にしたい何か、伝わる肌、姿になっていれば幸いです。
ぜひ、皆さまに作家の伝えたい思いを数寄和大津で感じ取っていただければ幸いです。 麻田
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松尾芭蕉の句です。