7/25//2008  数寄和大津 近辺情報

拍子の向こう、、幽玄そして妙

■ 「いそがしき中をぬけたる凉(すずみ)かな 」
芭蕉のお弟子の游刀(ゆうとう)の句
膳所の人で能太夫だったと言われています。
瀬田の唐橋から見た風景<br>青の中の色
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「さざ波や風の薫の相拍子(あいびょうし)」
近江を愛した芭蕉の句です。リズムがあり、たいへん涼しげですね。
游刀のお宅で詠んだ句で能の用語が使われているようです。
拍子という言葉に反応して、能に出てくる音楽・楽器のことに少し触れます。
小鼓(こつづみ)は演奏中も湿らすことが大事です。大鼓(おおつづみ)は小鼓とは逆で乾燥が大切な楽器です。不思議ですね。
笛も鼓もまずリズムが大切で能の内容(登場人物の感情なども含めて)を盛り上げていきます。
玄人による能は、入念なリハーサルを行わない上に一度きりの公演であるようです。日本人の感性には合っている様に感じますが、、、一期一会の精神ですよね。
能が表現する美的性質として広く知られた概念に「幽玄」があります。「幽玄」はあくまでも演技者が観客に対して意図的に表現しようとする美的性質のようです。興味深いのは「妙」です。
「妙」については世阿弥もその出現の原理や内容を完全に説明しきれておらず、「形無き姿」「無心」といった比喩によって説明を試んだようです。「妙」の美的性質は子方(子役のことです)の演技においても稀にあって、「妙」はそれが現れた時には演技者と観客のいずれにも作用するものであると言われます。この感覚は生舞台独特の面白さだと思っていました。、、、「妙」というのですね!
、、、ふと、先日の京都造形芸術大学のシンポジュウム「コミュニケーションと学びを考える」を思い出しました。「アートとアート作品は違う」との事でした。なるほど!芸術に共通の視点のようですね。

先のブログでご紹介した伝三Fさんのパントマイムに「薔薇との時間」があります。
舞台前半では薔薇との関わりの時間があります。後半では(他者である観客にとっては)既に萎れた薔薇と感じる薔薇です。自分にとっては美しかった薔薇だと今も大切な薔薇だとマイムで伝えてくれます。観終わった時になんと美しい薔薇だったのだ!(涙)と思います。最初からしっかり観ている観客にとっては美しい薔薇との時間を共有しています。それで、萎れた薔薇を美しかった薔薇、美しい薔薇と思うのです、、、そう、「妙」ですよね!

美しさとは何なのか?考えていないと上手く通過出来ないことが人生にはあるように思います。
ぜひ、美しいものを観てください。
そして、どうして美しく感じるのか教えてください。(あ)






 
琵琶湖
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